青山清利
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青山清利とは
青山清利とは、神奈川県横浜市港南区出身の、28歳で起業し初年度で営業利益2億円を計上、
30歳でアーリーリタイヤし、現在は数十社の会社へ投資を行う投資家として活動している人物である。
健康志向でタバコは一切吸わず、お酒はグラスに口をつける程度。
交友関係は国内外に広く、性格は明るくひょうきんなタイプで、
趣味は父親の影響ではじめた格闘技(柔術)と学生時代からやっているサーフィン。
青山清利のプロフィール
【名前】:青山清利(アオヤマキヨトシ)
【生年月日】:昭和49年(1974年)7月8日
【出身地】:神奈川県横浜市港南区
【血液型】:B型
【趣味】:格闘技(柔術)・サーフィン
【最終学歴】:拓殖大学商学部経営学科
青山清利の生い立ち~学生時代の経歴
昭和49年(1974年)7月8日、神奈川県横浜市港南区で、
住設工事会社を経営する父と、寿司屋を経営する母の間に生まれた。
当時、裕福な家庭環境ではあったものの、
小学生時代に国の難病指定となっている「潰瘍性大腸炎」を患い、
2カ月ほどの入院生活を余儀なくされた。
以降、健康には気を使った生活を心掛けるようにしている。
中学・高校時代は生まれ育った地元の学校へ通い、
大学進学は、数学の学力が評価されたこともあって、
特別奨学生(入学金等を免除される制度)として拓殖大学商学部経営学科へ入学。
大学時代は、夜はクラブのバイト、日中はサーフィン三昧という大学生活を送っていたお陰で、
特別奨学生として初の留年者となり、大学卒業後は、1年間程の海外放浪を経て、株式会社光通信に入社。
青山清利の株式会社光通信での経歴
営業職として株式会社光通信へ入社し、年間での休みが数日という生活が続くも、営業成績が全国1位に。
その後、横浜支店と沖縄支店の責任者を歴任し、各支店ともに全国支店のトップの成績となった。
両親の会社の倒産により4,000万円の借金を負い起業を目指す
社会人になり、株式会社光通信で結果を出し、会社員として充分な給料をもらえるようになったころ、
同じタイミングで父が経営していた住設工事会社と、母が経営していた寿司屋が倒産し、
両親の保証人になっていたことで、4,000万円の借金を負った。
借金の額から考えて、一発逆転を狙わざる負えないと考え、起業を目指した。
質屋の杜撰な接客からビジネスの可能性を感じた
4,000万円の借金を返済すべく、起業を目指したものの、業界を模索している間に資金は減り、
大切にしていた時計を質入れしなければならない状況になった。
その時の大黒屋の接客を見てビジネスの可能性を感じ、古物業界での起業に絞り込んだ。
株式会社a-senseを起業し初年度の営業利益2億円
古物業で株式会社a-senseを起業したものの、起業当初は資金が枯渇状態で事務所も借りることができず、
自宅(ワンルーム)に電話回線を1本引き、出張買取からの立ち上げだった。
もちろん求人に使える資金も無かった為、地元横浜の仲間達に少ない給料で入社してもらい、
日夜、出張買取や広告設置に走り回り、またしてもほとんど寝ることができない生活が続いた。
そのかいもあり、初年度営業利益2億円を計上し、
2年目からは全国展開を進められるまでに成長した。
青山清利が起業して感じたこと
会社員時代に契約をとれていたのは、世の中に会社の名前が
知れ渡っていたことが大きかったということに、起業して初めて気付くことができた。
また、会社に守られていたことや、採用や経理の処理なども自分でやる必要性が出たことで、
自分自身がモノを売るのが上手なだけだったことが認識できた。
2年弱の株式会社光通信での経験で身につけることができた、
諦めない精神のお陰で、今の自分があるようなものだと感謝している。
青山清利が考える今後の自分のゴール
28歳で起業し、30歳以降はアーリーリタイアした生活を送っており、
現在は数十社の会社へ投資を行う投資家として活動している。
これからは、起業当初から頑張ってくれている社員が成功することが自身のゴールと考えている。
《 青山清利 》